会津は歴史ある街です。観光等で来るのであれば、歴史に触れておくと数倍楽しむことができます。
しかし、歴史を調べようとすると難しくなってしまいがちです。
そこで、会津の歴史を主要な部分だけ抜き出して分かりやすくお伝えしたいと思います。
会津の主要な出来事を、戦国時代から振りますので、御覧ください。
会津の歴史 戦国時代~江戸時代
戦国時代、蘆名家が会津を治めました。
1384(至徳元年)には、蘆名直盛は現在の鶴ヶ城の前身とい合われる「黒川館」を築きました。
その後、蘆名盛氏が戦国大名として勢力を伸ばします。蘆名盛氏は、武田信玄が優れた武将4人の中に挙げられる程の実力者でした。
しかし、家督問題などが勃発し、蘆名家は衰退していく事になります。
1589(天正17年)蘆名家が内紛の中にある中、蘆名家を伊達政宗が破りました。
そして、会津は伊達の支配下に入ります。
しかし、当時絶大な権力を持っていた豊臣秀吉の命により、伊達政宗は1年程で会津の地を手放すことになります。
そして1590年(天正18年)会津は蒲生氏郷へ与えられました。
蒲生氏郷は、黒川城を改築し、7層の天守閣を建て、「鶴ヶ城」と名付けました。
また、町の名前も黒川から若松に名付けるとともに、城下町の整備にも取り組みました。
商業的政策を重視し、定期市の開設、楽市・楽座を導入するとともに、酒造や金工など、優れた技術を会津に移入することにも取り組み、会津が発展する礎を築きました。
蒲生氏郷自身も、戦では常に先頭に立つ勇猛な武将として優れ、和歌や宗教にも理解ある文化人という側面もあり、文武両道の優秀な武将として知られていました。
会津に繁栄をもたらした蒲生氏郷でしたが、40歳という若さでこの世を去りました。
1598年(慶長3年)豊臣秀吉の名により、蒲生家は宇都宮に転封(領地を移すこと)、代わりに会津を治めたのは上杉景勝でした。
上杉景勝は、上杉謙信の養子で家督争いの末上杉家を継いだ武将です。石田三成と親交を深めることで、徳川家康とは不仲になっていきます。この時、徳川家康との対立に備え神指の地に城を築くことにしました。
徳川家康が上杉景勝を討つために京都から会津攻めに動きましたが、その背後を狙う形で石田三成が動いたことから関ヶ原の戦いに入ります。
徳川家康の会津攻めが中止になったことから、神指城の築城も中止されます。
関ヶ原の戦いに徳川家康が勝利したことで、江戸時代に流れていきます。
江戸時代に入った会津は、上杉景勝から再度、蒲生家が治め、その後加藤家、保科家、松平家が治めていきました。
会津の歴史 幕末・戊辰戦争
江戸時代400年が流れます。
そして、1853年の黒船来航とともに幕末へと時代が大きく変わっていきます。
黒船来航の1年前になる1852年(嘉永五年)、松平容保が会津藩九代藩主となりました。
時代が動く中で、1862年(文久二年)に京都守護職を命じられます。
京都守護職は、当時の幕府の権威低下に伴う京都の治安の悪化を防ぐために設置された役職です。
松平容保は京都守護職を受ける事を再三断っていました。ですが、会津藩の家訓の中に「会津藩は将軍家を守護すべき存在」という内容があった事もあり、会津藩の根源である徳川家への「忠義」を尽くすため、家老の反対がある中ではありましたが京都守護職を承諾することになります。
京都守護職の役割は会津藩士のみでは手が回らなかった事があり、壬生浪士組(後の新選組)を守護職預かりとして配下に置き治安の維持に務めました。
会津藩が京都守護職の役割を担う中、1867年(慶応3年)10月に十五代将軍徳川慶喜が大政奉還。江戸幕府が終焉します。
1868年(慶応4年)、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍と、旧幕府軍が戦った「鳥羽伏見の戦い」から戊辰戦争が火蓋を切ります。
鳥羽伏見の戦い後、新政府が朝敵とした人物が、徳川慶喜と松平容保でした。
そのことから会津戦争に繋がっていきます。
会津藩と新選組の繋がり
会津藩と新選組は「義」によって繋がります。
新選組は、元々は将軍家の上洛に際して将軍警護の名目で募集した浪士の集まり「浪士組」です。
その後、幕藩体制の再構成の中で会津藩預かりとして新選組の前身である「壬生浪士組」が結成されます。
壬生浪士組は、文久3年長州藩を京都から追放とするという朝廷内のクーデター「八・一八の政変」においての活躍を認められ「新選組」が命名されます。
そこから、新選組は会津藩とともに幕末を戦い抜ける事になります。
会津戦争
鳥羽伏見の戦い後、新政府が朝敵とした徳川慶喜は江戸城を無血開城し、水戸へ謹慎されます。
その後、新政府の矛先となったのが、もう一人朝敵とした松平容保でした。
鳥羽伏見の戦いで破れた松平容保は新政府へ降伏の姿勢を示しますが、新政府軍は信用しません。
また、新政府軍が会津藩に示した降伏条件も容保の斬首、城の開城、領地の没収といった厳しい内容だったため、この条件を受け入れることが出来ません。このことから、会津は戊辰戦争で一番激しい戦場となっていきました。
新政府軍と会津藩の戦いは、1868年(慶応4年)に白河城攻防戦から始まります。激戦となりますが、新政府軍の小銃や大砲等により、会津藩は劣勢となっていき、舞台を本拠地である会津若松に移っていきます。
会津若松での戦いは、城下町を火で包む激戦が広げられ、籠城した鶴ヶ城は大砲による砲撃を1ヶ月耐え続けました。
その中で、白虎隊の悲劇や山本八重の活躍等が知られていると思います。
1ヶ月の籠城戦で、物資と戦力が激しく消耗し、1868年(慶応4年)9月22日、松平容保は降伏を決意します。
白虎隊の悲劇
白虎隊の悲劇は、何度かテレビドラマ化されたこともありご存知の方も多いと思います。
幕末の会津藩では、部隊を「玄武隊」「青龍隊」「朱雀隊」「白虎隊」と年齢順の部隊に編成しました。この中で、白虎隊は会津藩が組織した16~17歳で編成された部隊になります。
戊辰戦争の中でも、白虎隊は年齢が若い事から戦場に出る予定は無く、城内警備にあたっていました。しかし、戦場が会津に移るとともに、白虎隊にも出撃が命令されました。白虎隊は、鶴ヶ城から山を超えた戸ノ口原での戦いに向かいました。
戸ノ口原では、新政府軍の猛攻を防げず、会津藩は退却の命令を出しました。
退却の中、白虎隊の中で篠田儀三郎率いる16名は別の隊とも離れ離れになっていました。銃撃の中退却を続ける16名。中には負傷した隊士も降り、山道を抜けることは困難と感じ、用水路からの洞門を抜けて飯盛山へ抜ける事にしました。
洞穴を抜け、飯盛山中腹まで戻った白虎隊士たちは、大砲や鉄砲の音が聞こえることから鶴ヶ城がどうなっているのか心配になり、鶴ヶ城が見える所まで飯盛山を登っていく。
そこから見えたのが、火に包まれた城下町でした。
そこで、「お城が燃えている」と勘違いし、自刃した。と言うのが多くの方が知っている内容かと思います。しかし、実際は違うようです。
城下町が燃えている事を確認した白虎隊士は、「戦う」意見も出たものの、「敵に捕まって屈辱を受ける事は武士の恥」と考え、潔く自刃することを選んだそうです。
どちらにせよ、戦争に巻き込まれた少年達の悲劇は代わりありません。
まとめ
会津の歴史をできるだけ分かりやすく振り返ってみました。
会津といえば白虎隊や新選組等、幕末の出来事を中心に知られていると思いますが、実はそれ以前から成り立ちのある歴史があります。
ここでは分かりやすくするために説明を省いた箇所もありますが、調べれば調べるほど奥が深く、魅力があるのが会津の歴史です。興味や魅力を感じたら、更に深く調べてみてはいかがでしょうか。そのきっかけになったら嬉しいです。