「煤払い(すすはらい)」という言葉は、現代ではほとんど耳にすることがないですが、これは日本の伝統的な年中行事を指しています。
特に歴史ドラマや寺院関係者にはよく知られているこの行事について、「煤払い」の本来の意味や由来、そして現代の大掃除との違いを見ていきましょう。
「煤払い」とは?
「煤払い」は、毎年旧暦の12月13日に行われる伝統行事で、現代の大掃除に似た形で家全体を徹底的に清掃するものでした。
「煤」とは、火を使ったときに発生する黒い炭素の粒子のことを指します。例えば、バーベキューで炭を扱ったときに手に付く黒い粉が「煤」です。
昔の日本では、ガスやIH調理器の普及前には、主に囲炉裏やかまどが使用され、照明には電気の代わりに行灯が用いられていました。これにより、家の天井や壁には煤が付着しやすかったのです。
新年を清潔な状態で迎えるため、年末にはこれらの煤を掃除する習慣がありました。
「煤払い」の由来
「煤払い」は新年を迎える準備として、災いを払い清める重要な役割があったとされています。
この風習は平安時代にまでさかのぼり、当時の宮中で行われていたことが「延喜式」という文献に記されています。延喜式は、当時の法律や規則を定めた重要な書物で、その時代の人々が日々の吉凶を判断して行動を決める際に参照されていました。
これにより、煤払いがいかに重要な儀式であり、精神的な意味合いを持っていたかが明らかになります。
12月13日の選び抜かれた日付:江戸時代の煤払いの起源とその影響
煤払いは室町時代から寺社仏閣での行事として定着し、江戸時代には一般庶民にも広まりました。江戸時代に12月13日が「煤納め」の日と定められたのは、この日が「鬼宿日」として知られる吉日だったからです。
鬼宿日は鬼が外に出ないとされる日で、この日に実施される行事や作業は成功するとされていました。12月13日に煤払いを行うことで、奉公人や徒弟たちが年末に帰省するための準備ができるようになっていました。
この風習は、旧暦の12月13日に住宅から大名屋敷まで、隅々までの清掃が行われる形で広く実施されていました。
江戸時代の人々は、煤払い後に祝事や銭湯、宴会などを楽しむことで知られています。実際に、大奥の女中が胴上げされている絵が残っていることから、煤払いが単なる掃除ではなく、祭りのような催しであったことが伺えます。
煤払いの翌日からは、新年の準備として「歳の市」が開かれ、江戸の町は一層賑わいました。
煤払いと大掃除の違い
平安時代には神事としての意味合いが強かった煤払いですが、江戸時代には庶民的な年中行事として変わりました。時が経つにつれ、「煤払い」という言葉は使われなくなり、「大掃除」という言葉が普及しました。
つまり、現代の大掃除の文化的な起源は、煤払いにあります。
まとめ
煤払いは、現代の大掃除の原型と言えます。江戸時代には12月13日に行われ、年の終わりを祝う一環として位置づけられていました。
掃除は時に面倒かもしれませんが、その後のすっきりした感じは非常に心地よいものです。江戸時代の人々が楽しみを見つけていたように、私たちも大掃除を楽しむ工夫をし、年末を清潔で快適な環境で締めくくることが重要です。